『ゴーン・ガール』:ありのままの姿見せるのよ

GoneGirl

2014.12.12 新宿ピカデリー

『ゴーン・ガール』/デヴィッド・フィンチャー/アメリカ/2014 ★★★★

前半は謎解きサスペンス、後半はサイコパスの行動と振り回される周囲を見守る感じで、エンターテイメント性抜群、めちゃくちゃ面白かった!しかし1点だけ、どうにも腑に落ちないところがあったので★4つです。以下、その点含め、完全ネタバレしつつあらすじと感想を書きます。

【あらすじ】

生まれも育ちもニューヨーク、生粋の都会っ子でお金持ちセレブのエイミー(ロザムンド・パイク)は、頭脳明晰で美しく、母の大ヒット童話『完璧なエイミー』のモデルである。そんなエイミーに、あるパーティーで目を付けたのがミズーリ出身のライター、ニック(ベン・アフレック)。洒落た会話を繰り広げるハンサム男ニックにエイミーは魅かれ、二人は結婚する。2年ほどの蜜月を過ごしたが、それは長くは続かず、二人がともに職を失って経済的に困窮し始めたあたりから徐々に歯車が噛み合わなくなってくる。極めつけは、ニックの母が病気ということで、生粋の都会っ子であるエイミーはミズーリの片田舎に引っ越すことになる。心の離れた状態で迎えた5年目の結婚記念日、ニックが朝の散歩から戻って帰宅すると、家は荒らされ、妻が消えていた。しかも、ニックが犯人である証拠となるようなものが次々と出てくる。

【感想】

この映画の感想は、書き始めると、とっ散らかった事をダラダラ書いてしまいそうなので(それだけ色んなことを考えさせられたわけですが)、私が特に色々考えたことを、1.エイミーの「本当の私」について、2.結婚観について、3.マスコミの扱いについて、の3点にまとめてみたいと思います。

1.エイミーの「本当の私」について
エイミーは、社会的ステータスの高い都会人であることがアイデンティティのような両親に育てられており、しかも母は『完璧なエイミー』などという自分の娘をモデルにした絵本を書いています。その印税で金持ちなわけですが、自分の娘を「完璧な」って・・・(そんな面白くなさそうな絵本よくヒットしたな)ここには母の「そう見られたい」が如実に出ていて、エイミーが親の歪んだ愛情のもとで育ったことがわかります。

なので子供の頃から「完璧なエイミー」を演じてきたエイミーは、常に「相手の求める自分像」を、持ち前の明晰な頭脳を活かして瞬時に察知し、難なく演じのけます。そして運命の出会いを遂げたかのような相手であるニックは、洒脱な会話ができるハンサムではあるけれどもマッチョで田舎出身、こういう男はだいたい知的でありながらファックが大好きな女を求めるのよ、とばかりに、ヤッてるときに「ニック・・・大好きよ」と言い、じゃれあいながら図書館でファック、記念日の贈り物は「私たちの最高のセックスにふさわしいシーツ」など、ニックにとっての理想の女を演じます。私はこの時のエイミーは演じている自覚も特になく、純粋に楽しんでいたと思います。本当に好きだったんじゃないでしょうか。そうでなければ計算高いエイミーが田舎出身の凡人と結婚なんかするはずないですから。しかしながら、「ウフフアハハ」とパーティー会場を抜け出した二人の乗ったエレベーターが、下へ下へとぐんぐん下りていったことに示唆されるように、彼らにとってここが地獄の始まりとなります。

結婚生活の中で、二人とも職を失って経済的に困窮したり、ニックの田舎ミズーリに引っ越すことになったりと、二人の暮らしはエイミーの「完璧」からほど遠くなっていきます。特にニックは、どんどんダメ男になっていきます。職を失ってもゲームばかりやってるし、それを見て「働け」だの「無駄使いするな」だの普通の女みたいなことを言うようになったエイミーをあまり顧みなくなるし、始めの頃の、取材に乱入して公開プロポーズに持ち込んだり、唇についた砂糖を指で払ってからキスをするようなキザっぽいかっこよさは消え失せ、エイミーは「蓋を開けてみればコイツ、ただのおっさんじゃねーか」と怒り心頭です。しかも地元の若い巨乳ギャル(エミリー・ラタコウスキー)と浮気していて、その娘にもキスの前に全く同じことをしているのを目撃してしまい、裏切られたショックと、「あれはバカの一つ覚えだったのね!」というショックで、サイコパス化していきます。

ここで、色んな人が言及している、ヒッチコックの『めまい』(米・1958年)と比較して考えてみたいと思います。
『めまい』は、富豪の男に雇われてその妻マデリンを演じていた女が別の男スコティと恋に落ちる話です。しかし女は富豪との約束で姿をくらまさなければならず、スコティはマデリンが死んだと思い深くショックを受けます。が、ある日スコティはマデリンにそっくりな女を街で見かけ、声をかけて食事に誘います。その女とは、マデリンを演じていた女その人(ジュディ)で、彼女は元々彼を愛していたわけなので、いけないと思いながらもスコティとの逢瀬を重ねてしまいます。しかしジュディは、彼が求めているのはマデリンを演じていたときの自分で、本当の自分ではないことに徐々に気付き、葛藤します。

この、「あなたが愛したのは本当の私ではなく、作られた“私”だったのね」というテーマが、この『ゴーン・ガール』と『めまい』の共通点です。そして、そのことによって実際には深く相手を傷つけているにもかかわらず、男がひたすら何の罪もないような顔をしているところも同じです。しかしながら、『めまい』は男の側のみが、作られた女を愛し、本物を前にしても「違う」と首を横に振りますが、『ゴーン・ガール』では女の側も、かっこよさの消えた夫に対して「違う」と感じます。ここらへんがアメリカの50年余の変容で、『ゴーン・ガール』は非常に現代的な女性像を描いているのだと思います。1950年代にひたすら受け身だったアメリカ女性は、2014年まで来て能動も能動、自分を守り相手に復讐するためには殺人をもいとわない女性に進化(?)しました。こんなヒロイン見たことないし、明らかに狂ってるのですが、感情移入の余地がないわけではなく、その絶妙な匙加減がこの映画の最も面白いところだと思います。思えばエイミーは、両親にすら「本当の私を愛しているわけではない」と感じながら育ったわけですし。そういえば、エイミーを無条件に崇拝している金持ち男デジー(ニール・パトリック・ハリス)も、逃亡のため身をやつしているエイミーに「早く本来の君に会いたいよ」と言って服や化粧品を与えたりしていました。

で、まぁそんな色々な要因があってエイミーはサイコパス化していくわけで、もうエイミー自身も、演じていない自分というのは空洞で、何もないんだと思います。そういやこの人趣味とかもなかったですね。しかしこれは他人事ではなく、普通の人でもだいたい誰もが色んな役を色んな場所で演じているわけで、それを全部取り払ったときに何か残るのかと言われたら、ちょっとわからないかもしれません。だからこれをひたすら「結婚」に収斂させたところには、私は違和感を覚えました。冒頭で述べた、どうしても腑に落ちないと思った点というのはここです。

2.結婚観について
これは妻の頭をなでる映像に「君は何を考えている?」的ベン・アフレックのモノローグが重なるオープニングからしてこの映画の重大テーマだと思うのですが、一言「ひねくれすぎ」と思いました。それとも、アメリカでは「理想の家族」なるものが必須の物語として認識されていて、日本なんかよりもずっと「理想の夫でいなければ」「理想の妻でいなければ」と思わせる見えない圧力が強いのでしょうか?まぁ、この二人みたいに気どった状態で結婚に突入したらそうなるのもわかりますが、そうでない場合もたくさんあるはずで、悟ったようにそれを言われると、首をかしげてしまいます。私も結婚して1年半ぐらいですが、「理想の妻でいよう」なんて考えたこともないし、それ以前に「私は“妻”!」という意識すらしたことありません(しろよ)。しかし最近職場の後輩が、夜景の見えるレストランでカクテルを飲みながらプロポーズされて結婚したようで、朝も自分が先に起きて絶対にすっぴんは見せていないそうなので、今後どうなるか楽しみです。

3.マスコミの扱いについて
これがめちゃくちゃ面白かった。「可哀想なエイミー」を盛って盛って持ち上げ、「最低な夫」ニックを糾弾したかと思えば、「エイミー奇跡の生還」「苦境を乗り越え・・・二人の再スタート」と、「美しき二人」の物語を作り上げて大衆を煽る。ほんと、これってある程度実際こんな感じなんですかね?日本のフジテレビとか民放もこんな感じですよね。観ているだけで1秒ごとに頭が悪くなっていくような気がしますが、アメリカもひどいもんですね。あとすぐそれに乗せられる「善良な市民」の扱いも的確で気持ちが良かったです。ここで描かれた状況は日本も同じだと思います、ゴミみたいな報道に踊らされ過ぎです。これは『白ゆき姫殺人事件』の感想にも書きましたが、誰か「非難されるべきことをしてしまった人」を見つけるや否や、魑魅魍魎のように集まってきて罵詈雑言を浴びせる「善良な市民」の多いことといったら・・・。そのコインの裏側なのか知らないけど24時間テレビで泣いたりとか・・・。でもエイミーはそこすら利用したのが凄いですね。エイミーによるニックへの復讐劇の形を取りながら、フィンチャーによるマスゴミ批判となっていました。

こうして書いてみてもまだ色々と思いつくことがありそうで、本当に色んなことを考えさせられるスルメ型映画でした。コメディの部分もめちゃくちゃ面白かった。特に「強姦されたあああああああ!!」の演技のところ。原作読んでみたいです。

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『ゴーン・ガール』:ありのままの姿見せるのよ」への8件のフィードバック

  1. こんにちは。
    この映画、ほんとに面白かったです。観たのは去年なのに、いまだに思い出してはあれこれ考えてしまいます。
    くつしたさんの感想を読んで、もやっとしてた私の気持ちもすっきりしました。
    結婚って、エイミーという「私」を演じている彼女にとっては最高の舞台だったのではないでしょうか。
    夫という存在も、自分だけを観てくれる観客であり共演者なのではないかと思いました。
    そしてダサい田舎者の彼は、完璧なエイミーを演じるのにとてもコントロールしやすかったのでは?と思います。
    でも、夫が自分に興味を持たなくなってしまったら誰もいない舞台です。演じている意味がなくなっちゃいますよね。
    なので、テレビで自分の望みどおりの夫を演じている彼を見て静かに興奮する彼女には、ぞくぞくしました。
    最高の共演者をそこにまた見つけたんじゃないかと…。
    また、彼女がどんな夫を望んでいたのか知っていた彼にも驚かされました。意外に彼女のことを理解していたのかなと。
    いやー、映画ってほんとうに素晴らしいですね!という気分にさせられました(笑)

    最近のトホホ体験は、通路を挟んだ隣席の方が革靴をキュッキュッとこすり合わせながら最後まで映画を観ていらっしゃいました。無意識のクセなんでしょうね(苦笑)
    トホホ体験はシネコンなどでは想定内の事が起きるけど、単館系ではホントに想定外でいつもびっくりさせられますよね。

    • YUMI様
      コメントありがとうございます!『ゴーン・ガール』、本当に面白いですよね。観るたび新しい発見がありそうな映画でもあるので、できればもう一度映画館で観たいです。
      そして「共演者」の解釈、すごく納得しました!本当にそうですよね、別荘のテレビでニックを見たときのエイミーのあの表情は、「これよ、これ!」みたいな感じでしたよね。「共演者」って本当にぴったりな表現だと思います。すごくすっきりしました。ご教示ありがとうございます!
      トホホ体験、そうなんですよね、シネコン系ではだいたいスマホをいじるとか私語をするとか、まぁ想定できるトホホなんですが、単館系は「まさかこんなことが・・・」という内容のトホホが多くて、やっぱり独特な人が多いんだなぁ、と思ったりします(苦笑)。

  2. kutsushitatomokさん、こんにちは。とても興味深く読みました。

     「演じる私」を取り去った「本当の私」というのは、実のところ「演じないではいられない私」というところに帰結するのが、人間なのかもしれませんね。自分探しって、結局は口実に過ぎないんじゃないの?というのは、よく思うところではありますし(笑)。

     結婚観についてお書きの強迫感の部分ですが、僕も似たようなイメージを持っています。kutsushitatomokさんは、サム・メンデス監督の『アメリカン・ビューティー』は御覧になってますか? 15年前に綴った拙日誌に「映画のなかで印象深く使われる赤いバラの品種名で、作品タイトルにもなっている“アメリカの美”とは何だろうか。長年観てきたアメリカ映画を通じて僕が感じ取っているのは、タフでスマートでセクシーであることによって、特別な存在として目立ち、成功するということだ。多くのアメリカ人が、そのような自己実現を図らなければならないという強迫感のなかで生きているのではないかという気がする。」と記したのですが、理想の家族、理想の夫、理想の妻、みたいなことに強迫される度合いは、かつてと様変わりして“理想”という言葉が、むしろ侮蔑的に使われるようになるくらい軽視されるようになった今の日本とは大きな違いがあるように思います。『アメリカン・ビューティー』と同年のイギリス映画に、その名もずばり『理想の結婚』という「素直さの欠如を持ち味とする原作を素直に映画化した作品だと言える」ような映画がありますが、結婚2年目で観てみるのは乙なものかもしれませぬぞ(笑)。

     3つめの論点を読んで思い出したのが『ウワサの真相』という映画なのですが、「この作品に現れているアメリカン・スピリット」と拙日誌に綴った部分がとても興味深い作品でした。kutsushitatomokさんなら、どうご覧になるのか興味津々なのですが、ご覧になってないですよね?二十年近く前の映画ですから。

    • ヤマ様
      コメントをありがとうございます!それも色々な映画から解釈を提示してくださって、勉強になります。挙げてくださった三本、大変恥ずかしながらどの作品も観ておらず、観てからご返事したかったのですが、遅くなってしまいそうなのでひとまずご返事させていただくことにしました。映画を意識して観始めたのが18歳頃と遅く、しかもその頃は1950~60年代の映画を観ることが“映画通“である、と勘違いしていたため(苦笑)、当時の映画をリアルタイムで観ておらず大変お恥ずかしい状況となっております。しかしヤマ様のコメントを読んで、とても観てみたくなりました。ご紹介くださりありがとうございます!それに、ヤマ様の“アメリカの美”観、私はアメリカに行ったことがないのですが、映画を観る限りでは私もそう感じるので、非常に納得させられました。大変そうですよね。その意味では日本のほうがもう少し楽なのかもしれません・・・。

      • くつしたさん、

         >しかもその頃は1950~60年代の映画を観ることが“映画通“である、と勘違い

         大いにウケました(笑)。十年余で既にお気づきなら、立派なものです(拍手)。
         僕は、映画という表現において最も重要な点は「同時代性」だと考えていて、既に評価の定着したクラシックなんぞを後から追って確認しているような観方をバカにしていたので、逆に、恥ずかしいほど名作名画を観逃したりしています。これもまた大いなる勘違いなのですが、そのことに気付いたのがかなり遅くて、やや手遅れ状態になってたりします(苦笑)。
         流行り映画をバカにして、『タワーリング・インフェルノ』や『ポセイドン・アドベンチャー』なんぞを観逃していた勘違いについては、大学に入って東京の名画座で観る機会を得た二十代のうちに気づいたんですけどね(たは)。

         ともあれ、何かの縁で引っ掛かった作品は、観ることにためらわないほうがいいということは、この歳になると身に沁みてます。とりわけスクリーンで観る機会は、一度逃すと、なかなか叶わないですしね、昔と違って。

      • ヤマ様
        本当にそうですね。やはり新作を観ないと、せっかく“今”の映画を“今”観られるのにもったいないな、と気付きました。それに、やはり劇場で観るほうが断然面白いですよね。学生時代は多くをDVDで観ていましたが(お金がなかったこともありますが・・・)、劇場派となった今、家でDVD鑑賞するとかなりの確率で寝てしまいます(苦笑)。なので今は、クラシック系は名画座で上映されるときに観るようにしています。ですが、頑張っても一日に観られるのは3~4本程度なので、映画鑑賞が趣味になると時間がいくらあっても足りないですよね。本なども読みたいものがどんどん出てきてしまいますし。だから毎日楽しいともいえますが(笑)。

  3. くつしたさん、こんにちは。

     すっかり遅くなりましたが、過日の拙サイトの更新で、こちらの頁をいつもの直リンクに拝借したので、報告とお礼に参上しました。

     うえにも書きましたが、たいへん興味深い観賞文で焦点を小見出しで明示しておいでのところにとても感心しています。そして、それに見合った読み応えのあるものが綴られていて、とても面白いかったです。

     どうもありがとうございました。

    • ヤマ様
      ご返事が遅くなり申し訳ありません。いつも過分なお言葉、ありがとうございます!リンクを貼ってくださったとのこと、とても嬉しく存じます。こちらも楽しく読ませていただいております。『幕が上がる』の『桐島~』との比較など、ハッとさせられる点がとても多く、大変勉強になりました。ありがとうございました!

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