『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』:早く人間になりた~い、ではないけど

under the skin
2014.10.18 新宿バルト9

『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』/ジョナサン・グレイザー/イギリス/2013 ★★★★

好き嫌いは分かれそうな作品ですが、個人的には好きでした。セリフや説明がほとんど無く、ひたすら長回しとミカ・レヴィによる不協和音の不気味な音楽、それにスタイリッシュな映像で綴られるので、観る人を選ぶと思います。たぶん、これがダメな人には「何これ意味わかんない」と思う人と、「スタイリッシュを気取りやがって、キューブリックの二番煎じじゃねーか」と思う人との二種類いて、どちらの気持ちもわかるんですが、私は幸い、ストーリーはかなりわかりやすかったと思えたし、「気取ってる」とも思いませんでした。【感想】に、自分の解釈を書きました。

【あらすじ】

妖艶な魅力を放つ女(スカーレット・ヨハンソン)が、グラスゴーの街を車で走る。彼女は一人身の男を探しており、道を尋ねるふりをして男の身の上を探り、一人であるとわかったらその性的魅力を駆使して自宅に誘い込む。しかし誘われた男は二度とその家から出てくることはない。彼女は無感情な地球外生命体であり、地球の男を栄養摂取の道具としているのだ。しかしある日、顔に重い皮膚病を患った男に声をかけたことから、少しずつ「感情」らしきものが彼女の中に芽生えていく。

【感想(ネタバレあり)】

これはなんというか、抽象的な映像とか説明の少ない演出に目をくらまされそうになりますが、ストーリーについていえば、ちゃんと観ていれば実に単純であることがわかります。要するに「感情を持ってしまったロボットの悲しい物語」の系譜に連なる作品です。この映画ではロボットではなくてエイリアンですが、とにかく人間ではない何者かが人間らしさに憧れ、人間に近づいてしまった結果破滅する、という、これまで色々なところで繰り返し描かれてきたストーリーとほとんど同じです。 しかしこの映画は、その主人公の変化を、視界を主軸に描いたところが新しく面白いと思います。以下、主にその点からの感想を述べます。

いきなり「何これ怖い!」な、抽象的なオープニングからも明らかなように、この映画は「目」を通して人間の世界の捉え方を描いています。はじめのうちの主人公の目は、獲物としての男、それだけを捉えるためにあります。たとえば前半、海で、若い男が溺れている家族連れを見つけて助けようとし、自分も溺れてしまう、その一部始終を目撃する主人公は、当然応急処置をするでもなく助けを呼ぶでもなく、むしろ「ラッキー」とばかりにその男にとどめを刺して、「楽して一匹釣れました」みたいな感じで捕獲します。人間であれば、「溺れている人→助けなければいけない」、「助けようとしたのに溺れてしまった人がいる=悲劇である、助かって欲しい」となるのが普通です。でもここでスカヨハがあんな無慈悲な行動を取るのは、彼女が無慈悲だからではなく、残酷な心の持ち主だからでもなく、彼女の眼には「男=食べ物」という文脈しかインストールされておらず、他の情報は全然入っていないに等しかったからなのだと思います。

ところが、いつものように一人身の男を探していたある夜、一目でそれとわかる重い皮膚病を患った醜い男を車に乗せます。声をかけた時点では暗闇で見えなかった男の顔が普通ではなことが段々わかってくるのですが、スカヨハはいつものように道を尋ねた後、「一人?どこへ行くの?」と、プライベートをさぐる質問をします。「スーパーへ行く」と答えた男に、「なぜこんな時間に?」と聞くスカヨハ。男は「からかわれるから・・・」と一言、答えます。この時点で、人間であるこの映画の観客の大半は、辛いだろうな、気の毒だな、でも自分の近所にこんな人がいたら全く普通の接し方をできるだろうか、自信がないな、とか、色々と複雑な感情が湧きおこってきます。しかしエイリアン・スカヨハ、醜かろうが男は男なので関係ありません。むしろ女性経験がゼロであることを利用し、顔や首に触れさせ、誘惑し、自宅へ誘い込みます。男を自宅へ入れた後、スカヨハと男がどうなるのかというと、またここでの映像が非常にスタイリッシュで、スカヨハが男をどのように処理するのかを直接描くことはしていません。女は一枚一枚自らの衣服を脱ぎ捨てていき、男はそんなスカヨハの後をついて行くにつれ、ズブズブと沼に沈んで行きます。沈んだ後、男たちはどうやら皮膚一枚にされて、中身はドロドロとコンビナートで運ばれて棄てられるようです。で、この醜い男も一度は沼に浸かるのですが、思い直したスカヨハは彼を解放します。彼女に感情が宿りはじめたことが明らかになります。(このあたりで、ヒロインは何度も鏡で自分の眼を見ます。)

彼を解放したスカヨハは街に繰り出しますが、ここで彼女の目に映るグラスゴーの街は、『カメラを持った男』でキノグラースが捉えたモスクワの街のように豊潤で、人々の生活の営みがすぐれたドキュメンタリーのように生き生きと伝えられます(なんと実際に市井の人々を写しているそうです)。これは、「男=獲物」という、ただ一つ植えつけられていた文脈を捨て去ったからではないかと思います。だから主人公は、純粋にこの街のストレンジャーとして、目に映るものすべてを情報として取り入れているのだと思います。この街をさまよう場面は、主人公にとって、様々な文脈に縛られて生きている人間にもなりきらず、かといって男を捕食するだけのエイリアンでもない、もっとも世界をありのままにとらえることのできた奇跡の時間なのではないでしょうか。(その後は恋という強い感情を持ってしまったがゆえに、そうした視線はまた持てなくなっていると思います。)

ただし、その変化が起こる契機が、エレファントマンみたいな醜い男を餌食にしようとしたこと、というところは結構単純で、単純すぎるようにも思いました。それまではわりとチャラめな男を誘惑していたのにその時は真逆のタイプで、人生においても色々な不遇があったであろうことが想像に難くない男が、自分との出会いを「夢じゃないか」と言うことに対して憐憫の情が芽生えたから、ということだとは思うのですが、やっぱりちょっと単純です。あと、こういう話のご多分にもれず人間の男に恋をし、それが叶えられないことを決定的に思い知らされ、落ち込み、「化けの皮がはがれて」破滅。という流れも特段新しさがありません。 しかしそれでも、男をひらすら捕食していたときには映画の中ではっきりと機能していた主人公が、感情を身につけ、同時に男を捕食するという物事を見るときの主軸を失ってからは、傍観者のように、映画の外側にいるかのように街の色々を眺める様子にはハッとさせられるし、この映画はそのあたりを中心に観たら一番面白いのではないかと思いました。ラスト、降りしきる雪がカメラのレンズに付いたままになっているのも、目がまさに「ただのレンズ」になってしまったことを示していて、もうこの眼があの生き生きとした風景をとらえることはないんだな、あれは一瞬の夢だったんだな・・・などと思うと、やっぱりあの場面でのグラスゴーの風景がじんわり沁みてきました。

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