『身をかわして』:強烈な訛りで繰り広げられる若者たちの会話が凄い

l'esquive

2014.9.4 新文芸坐(新文芸坐シネマテーク。上映後に大寺眞輔氏の講演あり)

『身をかわして』/アブデラティフ・ケシシュ/フランス/2004 ★★★★★

最高でした。今年初めて観た映画の中でナンバーワンかもしれません。いや、この翌日に観た『クスクス粒の秘密』もかなり良かったので悩みますが・・・。過去の作品を初めて観てみると、『アデル、ブルーは熱い色』は確かに凄く良かったのですが、がっつりラブストーリーなのと、わりと上の階級の人達を描いているという点で、ケシシュ監督にとって新境地だったのかもしれません(まだ『黒いヴィーナス』を観ていないのでわかりませんが)。

パリ郊外の低所得者層向けアパートに住む高校生のクリム(オスマン・エルカラス)が、ふとしたきっかけから幼馴染のリディア(サラ・フォレスティエ)を好きになり、周りの「ダチ」も巻き込んで(勝手に干渉してきて、といったほうが正しい)すったもんだが起こります。彼らのクラスでは、マリヴォーの戯曲『愛と偶然の戯れ』を文化祭みたいなもので演じることになっており、リディアはそれに夢中になっています。はじめ無関心だったクリムは、リディアがそのきらびやかな(といっても実際には安っぽくて田舎くさい)衣装を着たリディアを観て初めてリディアを意識し、好きになってしまいます。そしてこれまで関わっていなかった演劇の練習に参加しようと、リディアの相手役の男子から役を譲ってもらいます。しかしクリムは演技経験ももちろんなく、みんなよりも出遅れたスタートで、散々な出来でみんなに笑われます。しかもリディアに告白したのにするりと「身をかわされ」、返事を保留にされます。そんなクリムを見ていられなくなった親友ファティが、ある行動に出ます。

ストーリーはいたってシンプルな青春ものと言えると思います。しかしこの映画の特徴は、彼らの発する言葉の強烈な訛りと若者のスラングで成り立った会話が主役であるところです。訛りとスラングについては、フランス語がわからない私は気付かなかったのですが、上映後の大寺眞輔さんの講義によって知ることができました。確かに、普段映画等で耳にするフランス語と何か違うなぁ・・・とは思ったのですが、訛り+若者言葉のダブルパンチで、ネイティブのフランス人でも聞きとれない箇所があるくらい強烈だそうです。今回は日本語字幕が付いていたので、何を言っているかはそれでわかってしまったのですが。

そんな「会話が主役の映画」ですが、どんな会話が繰り広げられていたかというと、低所得者層が住む地域が舞台ということで、みんなとにかく口が悪く、気が短いです。女の子同士でも、ちょっとそこまでの言い合いを繰り広げたらもう友情関係の修復は不可能だろう、というところまでとことん喧嘩するのですが、次の場面では仲直りしていたりします。それが時にユーモラスに描かれていて面白いです。女の子同士だけでなく、女の子が男の子に対して怒りをぶつけるときも、正直「す、すごい・・・」と呆気に取られてしまうほど畳みかけるように罵声を浴びせます。今気付きましたが、この映画は女の子のほうがよく喋る映画でした。主人公クリムは内気だし、彼の親友ファティも激昂してわめいたりはしませんでした。女子どもがとにかく凄い。気が強いです。

そして、会話が主役であることの他にもうひとつ重要なこの映画の構造は、「対立を描いている」という点です。これも大寺眞輔さんの講義で言われたことで、ここを理解することによって一層この映画の面白さに気付くことができました。

どんな点が対立しているかというと、まずは高校生の彼らの日常と、マリヴォーの演劇内の世界。貧しく被差別民である彼らの苦しい日常と、劇中の華やかで楽しい世界の対比。それに日常で彼らの使う訛りや若者言葉による崩れに崩れたフランス語と、劇中の文法的にもかなりカッチリした正しいフランス語の対比。そして劇中での、金持ちと貧乏人の対比。これらがぶつかりながら弾けるボールのように臨場感を持って描かれています。そしてさらにもう一つ加えると、演じる彼らの、映画の外での日常と、映画の中での日常の対比もあると思います。
この映画の日常部分の会話はドキュメンタリー的に見えますが、実は一言一句脚本に書かれた言葉を正確に発していて、がっちりと作り上げられたフィクションだそうです。なので、あれは実際の彼らのやり取りではありません。彼らの多くは素人俳優だそうですが、素人を使って完全なるフィクションを完璧に演じさせているようです。まぁ確かに、恐らく日本で言えば田舎のヤンキーみたいな彼らが、クラスの出し物である演劇にこれほど真剣に取り組む、というのがちょっと不自然だし、口喧嘩は物凄いですが血を見るほどの暴力は彼らの中にありません。結構みんなピュアで良い子たちです。しかし実際の低所得者層向けアパートの林立するエリアでは、こうはいかないそうです。
これらの何重にも重なった対立の構造がこの映画を成していることに気付くと、それを念頭に置いてもう一度観たくなります。(ソフト化してほしい!)

ただ一点だけわからなかったのは、ヒロインのリディアは見た目からしても完全なる白人で、クラスや仲間のほとんどが移民である中、どういう存在なのだろう?という点です。普通に仲間であるとは思うのですが、たとえば移民の子の家にインターホンなどありませんでしたが、リディアの家(アパートかマンション)には1階にインターホンがあり、日本でいうオートロック付きマンションのように見えました。ということは、リディアは他の子たちよりも少し裕福なのでしょうか。それによって仲間内で少し浮いたりなどしているのか、そのあたりがちょっとつかめませんでした。

あと、この映画を観て『アデル~』についての感想が少し変わりました。ケシシュ監督はチュニジアからの移民であり、労働者階級の出だそうで、「階級」ということに対して常に問題意識を持っているのだと思います。で、『アデル~』の二人の破局の原因について、監督が「二人の階級差である」と発言していたことに私は「えっ、そうなの!?恋人以外に大切なものを持っているか、他には何もないかの違いじゃないの!?」と驚いたのですが、この映画を観てみると監督の言った意味がわかるような気がしました。ただ、『アデル~』のアデルは、この『身をかわして』ほどのわかりやすい低所得者階級ではないし、それが(少なくとも日本人にとっては?)わかりにくいことは確かだと思うのですが、監督がはじめから「階級差が二人を引き裂く」ということを念頭に撮っていたのだとしたら、そのように解釈できる場面はいくらでもありました。パーティーの場面など私には「スノッブのいけすかない奴らのパーティー」としか見えず、「これをエリート階級として描くっていうのはどういうことなんだろう」と思ったりしましたが、監督にとってエリート階級とはもしかすると正にああいうものなのかもしれません。

それにしても、この「新文芸坐シネマテーク」という企画はとても良かったです。『アデル~』という、今年公開された(orされる)映画の中でも指折りの話題作の監督の、日本では一般公開されていない過去の作品という上映作品のチョイスも最高だったし、講義が付くことで観っぱなしにならずに、理解を深めることができて、ますますその映画の魅力に気付くことができたというところがすごく良かったです。この企画は継続される予定とのことなので、出来る限り参加してみたいと思います。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中